この分断の時代を


2017年12月31日

ベルリンに来て、八ヶ月が経った。その間に何があったと、並べたてて誇るようなことは何もない。生活にはすぐに慣れ、不自由もなければ郷愁もない。生きるという点では、東京にいてもベルリンにいてもさほど変わりはない。同じ地球の地を踏み、空気を吸っている。文化が違おうが、言語が違おうが、わたしがわたしである限り、何に迷うことがあるだろう。その時どきに導かれるものにしたがって、生きるだけである。

ただ内的に多くのものに影響を受けて、世界が広がった。それこそ求めたものだった。
東京にいては気づけなかった、いくつかのことを意識するようになったと感じている。その最大のものは、信仰だ。

家の近くの華麗なモスクで、ちいさなお祭りがあったときに、ひとりで遊びにいったら、声をかけてくれたトルコ人のムスリム二人と友だちになった。ラマダンの時期には、日没後の食事に招待してくれた。彼らと同じように一日何も食べずにすごして、陽が沈んでから家庭的なトルコ料理をいただいて、神への祈りを後ろから真似て参加させてもらった。彼らの友人のチュニジア人ともそこで知り合って友だちになり、宗教や神をめぐってのいろんな話をした。
スペインの巡礼路を歩いているときには、ドイツ人のクリスチャンの夫婦に出会った。六十歳を超えた年齢で病を抱えながら、伝統的な方法で南ドイツにある自宅から出発し、出会ったときにはすでに五ヶ月歩きつづけてきていた。歩き通すと、二千キロにもなるらしい。僕はクリスチャンではないけれど、キリスト教に関心があり時おり聖書を読むといったら、奥さんは、旅で初めて会った日本人があなたで、きっと神が導いてくれたのね、といって涙を流して、祈りをあげてくれた。

イスラム教にしても、キリスト教にしても、それぞれの世界観で生まれ育ち、生きているひとたちがいる。きっと彼らは、同じ世界に生きながら、世界の見え方はまるでちがうのだろう。にも関わらず彼らは、信徒ではない僕のことをこころよく祈りの場に招いてくれた。宗教はいまでも豊かな形で、ひとの心のなかに生きつづけているのだということを肌で感じた。
僕は特定の宗教は持たないし、持つつもりもないけれど、なにかを信じるという行為の貴さそのものを、彼らから学んだ。人それぞれが、それぞれの世界を信じながら、この同じ世界を生きている。当たり前のことかもしれないが、それはとても美しいことのように思える。

だからこそ、それぞれが信じるそれぞれの世界を、たがいに尊重しあわなければならない。

はたしていま日本で、信仰とはなにかをみつめるとしたら、何に向き合うべきだろう。いわゆる宗教の信仰とは違う、日本という国や民族そのものへの信仰、それがよくない形で結びついた人種差別主義、歴史修正主義が台頭していること。この時代に根づよく跋扈するそれらと、私たちは冷静に対峙しなくてはならない。そして同時に、日本におけるカルトではない、本当の信仰のあり方とはなにかを考えていく必要がある。

世界観を尊重することと、言論の自由を振りかざして異なる世界観に生きる人びとを身勝手に攻撃したり排斥したりすることとは、当然のこと両立しえない。私が私の世界観の下に生きる自由が許されるならば、他者が他者の世界観の下に生きる自由も許されるのが道理だ。
言うまでもないのに、日本ではこのことに対する、根本的な危機感が薄い。ここドイツでも、先の選挙では極右政党が票数を伸ばし、一方移民受け入れで反感を買ったメルケル政権に終わりが近づいていることから、なにも日本だけの問題とは言わない。しかしなんにせよ強く危機感をもつべきだ。私たちが抱くべき危機感は、隣国に向けてではない。私たち自身に向けてである。

僕は日本の現今の政治と国民の状況に、絶望的な分断を感ずる。政治に関心をもつ者たちがさまざまな形に分断していれば、無関心な者たちはさらに分断している。政治に関心のない若者、なんて単純なものではない。むしろ若い世代は政治への焦燥感を露わにしているようにも思う。決定的なのは、数十年の時をかけて根ぶかく広がった国民全体の政治への無関心だ。その分断する人びとを巧みに誘導して、状勢をいいように動かそうとしている者たちもいる。
状況は芳しくない。この分断の時代を、私たちはどう乗り越えればいいのだろう。デモが無意味だとは言わない。まして選挙が無意味だとも言わない。それは私たちの、現行の民主主義下での意思表示の手段の一つだ。しかし同じ思想をもつ者同士の連帯だけでは、分断は深まるばかりとも思える。

するともしかすると私たちには、これまでにはないもう一つの別な、新たな世界観が必要とされているのではないか。分断を超えて、両者の信じるものをそれぞれたがいに尊重しあいながら、それでいて愚かな人種差別主義や歴史修正主義を無効化する、より強固なる思想。日本における、本当の信仰のあり方。それをいまこそ考え築き、打ち据えていかねばならないのではないか。宗教の話をしているのではない。抽象論でもない。なにを信じるかという行為の話だ。突拍子もないだろうか。夢物語だろうか。しかし、そこに道をみたい。そのために日本とはなにかをもう一度、丁寧に学び直すことが不可欠である。

思えばこのベルリンへの滞在は、ゆくゆくは日本に帰着するために企てたものだった。日本に生まれ育ちながら、日本という存在が何なのかわからず、意識もしてこなかったが、国の外から日本を眺めることで日本を知り、学びはじめるきっかけにしたいと思った。
いま僕は日本のことを知りたいと思う。隣国の、中国や韓国、台湾のことを知りたいと思う。なぜなら私たちは同じ地球の地を踏み、空気を吸っているのだから。文化が違おうが、言語が違おうが、わたしがわたしである限り、何に迷うことがあるだろう。他者を攻撃したり排斥したりする必要などないということを、私たちは学ぶべきだ。私たちがしっかりしさえすれば、時代はまた新たに築かれていく。そのときこそ、今度こそ、本当の民主主義の世界が始まる。そう信じたい。


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