コーチング採録 ― 理想のコミュニケーションのあり方を考える


2016年8月19日

コーチ:藤井宏次氏 / クライアント:酒井一途
(コーチの許可を得て掲載)



今日のお題はコミュニケーションです。

昨日ふと思ったんです。「世の会話のほとんどはするに値しないのではないか」って。傲慢な言い方ですけど、僕にとっては、です。いわゆる世間話とか、コミュニティの誰がどうした、という話に、本当に興味が持てなくて。どうして知らない人のことや、第三者の話をみんなしたがるのかわからないんです。ここにいるのは、いつだってあなたと私なのに。ここにいない人の話をしたいとは、僕は思わないですし、その話題に関わっていきたいとも思えない。だから大人数でする会話(たとえば飲み会での会話)には極力入ろうとせずに、黙り込むことがしばしばあって。だって誰に向けて何を話したらいいかが、わからないから。これまでは適当に、「僕コミュ障だから」とか言って片付けてきたんですけど、一概にそういうことでもないのかな、と思いました。
それは何かというと、おそらく僕は「コミュニケーションをする上で、目の前の相手に真剣に向き合う」ことを、自分にも他人にも、高く要求しすぎているのかもしれないのです。だから宏次さんにコーチングをしていただいている時だとか、あるいは僕自身が相手の話を真剣に聞いたり、自分の話を真剣にしている時、ある特別な精度の高さや、意識の集中の中で会話をすることだけが、僕にとってはもっとも心地よい会話のあり方なんです。でも、どうも多くの人はそうでもないらしいことがわかってきた。
信頼している友人に、そのことを問いかけてみたら、「確かに世の人は、それ以外に面倒なことが多すぎるし、人との会話とか関係の中でくらい、楽をしたいのかもしれないね」と。「一途と話すときは、楽っていう感覚は、まあ、ないかもしれない」。そうだとして、はたして世間話とかうわさ話をしていて、人って本当に楽しいのかしら、って聞いたら、「人にもよるだろうけど、別にみんながみんな楽しいわけでもないんじゃない?」って返ってきたんです。僕はこのことが不思議なんです。

―― このセッションの中で、その辺のテーマをどんな風に見つめたいかってある?

「僕という一人の人間が、どう他人とコミュニケーションしていきたいと思っているか」を探っていきたいです。人のことはわからないし、僕がどうこうすることではないから、まず自分のことを。

―― いま話を聞いている中で、僕の勝手な感情かもしれないんだけど、ちょっと悲しみとか寂しさとかが見えて。そういうのはある?

あります。それは、あります……うん。感情的な切り口では考えてなかったんですけど、それは確かにあるなっていうのは、今気づきました。

―― 思い出したのは、イワーノフって役をやらせていただいた時にさ……(※チェーホフ作『イワーノフ』のこと。コーチは劇団に所属して役者業をしている)

読みました。

―― ああ、読んだ。すべての人間が話していることがくだらなく聞こえるのが、ものすごく悲しくて。本当に低俗だなと。自分が作った役がそうだったのかもしれないけど、そういうのを思い出した。

ついこの間読んで、思ったことがあったから、ちょうどその話を今日絡めたいなと思っていたんです。
登場人物のサーシャにすごく心打たれたんです。彼女が「実行的な愛」というのを言う。三幕の中でイワーノフと会話をしている時に、彼女はこう言うんです。「あなた今すぐ奥さんのところに帰って、じっとそこにいなさい。一年でもいなきゃいけないのなら一年座って、十年いなきゃいけないのなら十年座って、そうするのがいちばんいいのよ。ただいちばん肝心なことは仕事をするってこと」。このセリフを読んだときに、これはすごい言葉だな、と思いました。
サーシャは、イワーノフのことが好きで、愛そうと思っている。それなのにイワーノフに、「あなたは病気の奥さんの元に帰りなさい」と言う。これは本当に、愛の形を示そうとしているセリフです。イワーノフが自分の苦しみに向きあうことを、彼の「道」として指し示して、かつその道を隣りで共に歩いていく、という愛の形を示したセリフだと思ったんですね。
ドストエフスキーだと『罪と罰』が一番好きで。その小説では、人殺しをした主人公ラスコーリニコフに、ソーニャという娼婦が、いろいろな葛藤があった末に、「自白しなさい」と言うんですけど、そのときのシーンにすごくかぶって読めました。「あなたはあなたの苦しみを生きなさい。私はその苦しみの道を行くあなたの隣りにいますよ」という姿が、すごいなと。それこそ、コミュニケーションや人との関わりあいの中での、究極の形の一つなのではないか、って。僕自身そういうあり方をしたいな、と思っているんです。
『イワーノフ』の中では、その後四幕に入ってから、サーシャが悲嘆に暮れ、「『実行的な愛』を求めたつもりだったけど、私は『受難者の愛』になってしまった」と言う。それはそうだろうと思います。というのは、彼女はイワーノフに対して「自分の苦しみの道を行け」と指し示して、自分も隣りに歩くことを宣言し、それを「実行的な愛」と言った。けれど、苦しみにある人の隣りを歩くことは、サーシャが「サーシャ自らの苦しみを行く道」を自分で選び取るということだから、それは受難なんです。それぞれが、それぞれの受難の道を歩んでいって、その受難を隣り同士で支えあっているというようなもの。だから「受難者の愛」になったというのは、至極全うなことで、その辛さに共感しながらそれはそうだよねと納得しました。
そこらへんの話が、僕が取りたいと思うコミュニケーションの話とも関わってくると思って。『イワーノフ』の話を例として持ち出したいと思ったんです。

―― 人とコミュニケーションを取る上で、「ああ、いま本当に心と心で話せてるな」って思う瞬間があると思うんだけど、そのときに「何」があるとそう思える? 一途の場合は。

真剣に目の前の相手に向き合おうとする姿勢、ですかね。
実際、一対一で話すときって、「私の話」か「あなたの話」か「私とあなたのあいだの関係の話」にしか興味がなくて。そのどれかに向き合っていればいいので、たとえばコーチングみたいに、相手にスポットを当てて、相手の内面を掘り下げていくようにお互い話をしているのでもいいし、二人の関係性を掘り下げていくように話していくのでもいいんですけど、「なにか、あなた自身ないし私自身に向き合って、そこを掘り下げていこうとする姿勢」があるかどうか。

―― 追求するとか、探求するとか。

そうですね。

―― すでに知ってることには興味ない、みたいにも聞こえるけど。知らない領域を掻き分けていくことに、対話の意味があるんじゃないの、という。

そうですね。僕はどうも、それを突然やり過ぎるというか、初対面の人にも求めるみたいなんです。
今朝思い出したことなんですけど、大学三年だか四年の時に、大学のとある講義のメンバーで合宿に行って、夜、風呂場で男子たち数人で狭い風呂に一緒に入って、話をしている時に、「酒井さんは、普通人がまず世間話とか雑談をしながら、関係を深めて、仲良くなっていって、ようやく話す本音とか、心を開いた話を、突然聞いてきたりするし、正直最初戸惑いました」と言われたことがあったんです。
僕は世間話や他愛もない雑談に興味がないから、できればカットしたい。それで初対面の時から唐突にカットするから、もしかしたら僕は無礼なのかもしれません。結果的にすごく話す相手が狭められてしまう。普通、世間話や雑談をプロセスとして経てから、本音の話に行くものだから、突然本音の話を振られることに、嫌がるというより戸惑いがあるのかもしれないです。自分の内面の深いところを、初対面で話すことに対して、抵抗感があるのかもって。

―― 一途は繋がりたいとか、向きあいたい、わかりあいたいという思いが結構……

あります。根底で、どこかしらでは、「わかりあえるなにか」が見つかる、って前提に立っているところがあって。

―― すごい大事にしているものがあるよね。

人を信じすぎているから、そこに至れなくて幻滅したり、悲しい思いを抱くのかもしれない。もともとその前提に立って、求めているものが高すぎたり……

―― どういうものを求めているの?

「わかりあえるなにか」を掘り下げていこうとする、向きあう姿勢。

―― 掘り下げていく先には、何があるの?

繋がれるとか、わかりあえた感覚とか。

―― わかりあえるとどんな感じがする? どこがゴールなのか。

個と個として、別の存在としてこの世に生きている中での、一体感が生まれるのかな。

―― 一体感を求めている?

そうですね。精神的な繋がりを求めている。

―― 精神的な繋がりって、一途にとってはどういうものなの?

うーん、ちょっとこの言い方は違うかとも思いつつ、いちばん最初に思いついたのは、「寂しさを埋めるもの」なんですけど。肉体を持って生まれてきてしまった以上、肉体的には絶対的に分け隔てられているわけで−−−物理的に生きているあいだは−−−まず肉体的に離れていること自体が寂しいのかもしれないし、だからせめて精神的に繋がれたっていう瞬間があることに、すごく自分にとっての価値があるのかなと思います。でも同化ではないんです。あくまで、異なる個と個が、別の存在同士で繋がるから、いい。

―― 舞台とか演劇もその一つなのかな。書くって行為はどんなもの?

迂回した話し方になるんですけど、友人に、僕にはないコミュニケーション能力を持っている人がいるんですね。というのは、僕がプロセスを省いていきなり深い話に突入して、相手に戸惑いとか抵抗感を与えてしまうのに対して、彼女はいきなりそこに入っても問題ないというか、会った瞬間に相手と心を打ち明けられる人なんですよ。
彼女がそこまでの域に達するまでにも成長の過程がありました。僕が彼女と出会った頃は、彼女はまず自分の話をすることで自己開示をして、過去の自らの強烈なトラウマ体験を全部相手に言ってしまって、相手もそういう話ができる状況を「場」として作る、ということを当時はしていたんですね。今では、そこもすっ飛ばして、彼女が自己開示をしなくても相手から話してくる状況が作れてしまうようなのですけど。
人とコミュニケーションを取っていくには本来、やり方や踏んでいくべき順序があって。僕みたいに、世間話とか雑談で距離を近めていくプロセスをふっ飛ばして、いきなり深いところで話をしあえる人と出会えるのを、ただ待ってるだけではなく……そうではなく、いろいろ会話する上での、技術的なことを学ぶ必要はあるんだろうとは思いつつ……

―― まだお互い扉が開いていない関係であっても、扉を開けて通じ合えるんじゃないかって希望がある?

ただ、はたして僕がそういうコミュニケーションを取れるように、人とコミュニケーションをする上での努力をするべきかどうかが、ここから考えたい話題なんです。つまり、それをしないから、物を書いて、作品を「(他者や社会と繋がるための)仲介物」として置くわけですから。

―― 清水邦夫さんとかも、めちゃくちゃ無口だったって言うしね。

ああ、そうですね。

―― 喋りすぎると、どんどん減ってっちゃう感じがあるね。逆に言葉を選びすぎると全然話せなくなったり……どうなんだろうね、どうしたいんだろうね、一途は?

書くことで一つ、誰か他者だったり、社会と繋がるための手段はあるんですけど、それは本業として置いておいて。僕自身は、自分の身体で誰かと話すときにどうしたいのかな、と。

―― どうしたいんだろうね? 何か胸のあたりに引っかかりとか。

ありますね。

―― 不安とか……擬態語とか擬音語でもいいけど、どんな感覚なの?

なんだろ、もやっとした感じ。

―― クリアじゃないよね。

人とうまく話せなかったりとか……うまく話せないというか、深いところの話ができなかったり、あるいはそこに行こうとする前に相手が心を閉ざしてしまったときには、胸がもやもやします。

―― 何なんだろうね。過去の体験が想起させるものなのか……それはすっきりさせたい?

させたい、ですね。

―― コーチングにツールがあって、試してみたら面白いかと思うんだけど、乗っかってみる?

はい。

―― 視点を変えるためのツールでね。説明から入ると、たとえばお金には人それぞれいろんな視点があって、力だっていう人とか、きたないものだっていう人とか、いるよね。ある対象に対しての、物の見方をいろいろ探っていって、そうすることで、自分にとっていちばん機能する切り口を意識的に選ぶんだ。今回探っていきたい対象って、「他者との関わり」とか「コミュニケーション」とか、一途がしっくり来る言葉は?

コミュニケーションです。

―― 対象はコミュニケーション。これをいくつかの視点で見ていくんだけど、まず今いる視点を改めて明確にしよう。今もやもやしているのはどんな感じ?

言語化すると……

―― 言語化する前に、もっと感じきっちゃう方がいいかも。そのもやもやの感じ。

手が届かないものです。

―― うん。これイメージだけど、手が届かないし、足下もドロドロしている、そんな感じがあるね。

ドロドロっていう感じは、ちょっと違って。友人にされた比喩なんですけど、「湖の上にボートが浮かんでいて、一途さんはそこに乗っかって『おーい』って手を伸ばしている、でも自分では近づいてこない」みたいな感じ。

―― 自分がボートに乗っている?

そうです。それはすごくしっくり来る。たまにその湖に、舟を浮かべて向こうから近寄ってきてくれる人とは交流できる。

―― その視点に名前をつけるとしたら? 今いる視点に。

名前? ……「湖上の舟」の視点。

―― これはあくまで、一個の視点で、同じ人間でも複数の視点があるから、それを探っていこう。いったん今までの話はすべて忘れて、ニュートラルな状態になって。また改めて違う視点を見てみよう。

―― 一途がいちばん満ち足りたような気分になったり、開かれた気持になるシチュエーションや場所、人はある?

ああ……誰かと通じあえた感覚があるとき、一緒に深いところまで降りていけた感覚があるとき。

―― 思い出す具体的な経験はある?

具体的なのは……どういうときかな。具体例と結びつけるのが苦手なんですよね……いくつかあることはわかるんですけど。

―― じゃあその深いところで繋がれたときの感覚ってさ、身体で表現するとどんな感じ? ちょっとやってみようか。

こういう感じ(両手を大きく拡げ、ランナーがゴールテープを切るときのような格好、あるいは世界に向かって自らを解き放つような格好、になる)

―― (コーチも同じ格好をする)開かれた感じ?

開かれてます、完全に。

―― ちょっと遊び感覚で、お互いこうやったままでしりとりしてみようか。(しりとりする)……うん、そんな感じで、改めてコミュニケーションってどんな感じがする? パッと感覚で。

なんか、うーんと、「電波の飛ばしあい」みたいな。

―― 電波の飛ばしあい。いいね、非言語も含めて。やっぱり通じあってる感じなのかな。たとえば電波三本立っているような?

一本でこう、行き来しているような感じ。

―― オッケー、オッケー。何が通じあってるのかわかんないけど、そういう感じがあったよね。コミュニケーションとは、「電波の飛ばしあい」。

―― いくつかまた、他の視点から出してみよう。これまで一途は舞台を作ってきたじゃない、その中でいちばん楽しかったこと、あの稽古楽しかったなとか、あのシーン作ってる時楽しかったなみたいな。

いや……苦しいことしか思い出せないですね(笑)

―― (笑)じゃあ自然の中で好きなところある? 山とか海とか。

ここっていう場所は特に……ああ、教会の中が好きです。

―― 教会の中、どういうところが好きなの?

まず空間が好きです。時が止まったような、広い空間。以前勤めていた会社の近く、六、七分歩いたところに古い教会があったんです。建物の中の小さな一室みたいな、日本にありがちな教会じゃなくて、ヨーロッパにありそうなしっかりした建築の教会でした。カトリックの教会で。よく昼休みに何も食べずに、そこに行って一時間ただ座っているっていうのが、心を落ち着ける手段だったんです。

―― 面白いね。お寺とか神社じゃなくて、教会なんだ。

教会ですね。ヨーロッパに旅行に行ったときも、教会好きでした。

―― お祈りとかもするの?

お祈りは別に……まあ、そういう気分であればするという……

―― 空間が好きなんだ。

空間が、そうですね。教徒でもないし。

―― いま教会の中にいるとして、改めてコミュニケーションについて考えると、どんなことを?

「沈黙の中で通じあえるもの」です。理想は、劇場の空間を教会の空間みたいにしたい。教会の中で味わえる感覚が、劇場の中で味わえるというような……

―― ああ、いいね……もう一個くらい出してみようか。人生ですごく楽しかったこととか、嬉しかったことって?

二十一歳の誕生日……お祝いをしてもらったんですけど、……幸せでしたね。こういう幸せな日があるんだなっていうことを、すごい感じました。あの日があったから−−−もう一度あんな日を、みたいなことはあまり思ってないですけど−−−ああいう日があったことがひとつ……僕が自分でこの人生を生きていて、誇れること、ですね。

―― すごい大事な記憶なんだ。その感覚からコミュニケーションを見るとどういう感じ?

「愛しみあう」って感じです。

―― まただいぶ質感が違うね。言葉としても美しい。

―― いくつか出てきたけど、最初「湖上の舟」があって、「電波の飛ばしあい」「沈黙の中での通じあい」「愛しみあう」……同じものに対して、違う状態の視点から出てきたものだよね。このなかで自分で響く選択ってある? どれがしっくり来るか、コミュニケーションを見るときに自分にとって機能するものとしたいかを選ぶんだけど、直感的にどれがってある?

なんか、ちょうど段階になっていて、現実(「湖上の舟」)から理想(「愛しみあう」)になっていくんですよ。たまたまだったんですけど。

―― じゃあ理想はやっぱりこれ(「愛しみあう」)なんだ。

そうですね。過程があるのも面白いなと思いました。ストーリー的に、最初は感情的には悲しみとか寂しさとか、ある意味諦めのようなものから入って、電波を飛ばしあえるような状態になって、そこから沈黙が共有できる感じになって、最後はそうしたものを超えて愛しみあえるという流れが……

―― 「愛しみあう」って言葉を一途が話すとき、眼差しが変わる感じがするね。すごい優しい目になる。

―― ここから先は、この「愛しみあう」視点で、一途がコミュニケーションに向き合っていく上で、何を選ぶのか、何を選ばないのかということを見ていきたいんだ。実際、話してる中でどういう選択をしていきたいと思った?

そこが考えどころで、雑談や世間話をしないというのは一つあるんですけど、世の人はそれを基本的には必要としている−−−そのプロセスを踏むことを−−−となったときに、じゃあどうするのか。僕はこのプロセスを踏みたくないし、興味がないから踏もうと努力できない。

―― 沈黙が居心地わるくて、どうでもいい話をしていることって、いっぱいあるよね。そういうので満ちてる。実際の会話にしても、溢れてる文字にしてもね。どれだけ必要のない言葉や文字か、ってものが行き交っている。

だから「世の会話のほとんどはするに値しない」と僕は感じるんです。

―― 今日の最初のテーマで、コミュニケーションの方向性や指針を明確にするってところなんだけど、恒久的なものでなくていいから、一つ腹を決めるというか、「僕はこれを大事にしていく」ってのを言い切れるものはある?

最終的に、どこに自分のあり方を置きたいかというのは、考えるところがあって。さっき話した友人は、一つ究極の理想形というか、彼女が彼女の道として体現しているものだと思うんですけど。はたして僕が同じような感じになる必要があるかというと、決してそうではない。僕の行くべき道、僕の取っていくべきコミュニケーションのあり方ってどんな感じなんだろうな、って。

―― 道って続くものだから、全部は見えないかもしれないけど、指針をね。

たぶんこれまで話してきた方向に進むことは、多くの人と繋がる必要がないという方向性なのかなと、なんとなく思っていて。言ってみれば他人とコミュニケーションスタイルを合わせない、という選択だと思うので。

―― それも一途が選択することで……コミュニケーションスタイルを合わせないって選択もできるし、あるときには合わせるって選択もできるし。このツールを通じて感じてもらえたらうれしいのは、いつでも自由に選べるってこと。いつでも視点は変えられる。ある視点に嵌まっていると重くなる感じがするから、いろいろ動きが出てくると。

いろいろ問題が絡みついてて、すごい難しいところなんですよね。そもそも人とコミュニケーションスタイルを合わせようって気が、昔からあまりなくて、だから営業はやりづらいと思ったんですけど……スタイル合わせないと営業できないと言われていたから。
ただ一方で、この「愛しみあう」というスタンスは、コミュニケーションスタイルなんかまったくない状態というか、お互いが無である状態……こちらが無であるから、相手もそこに同化できるみたいな感じだと思っていて。
結局、自分に対する執着があるんだろうなと思うんですよ。だからこの話題になった時にも、「コミュニケーションスタイルを変えたくない」みたいなのが発想として出てくるし。自我が邪魔をする、自意識が邪魔をする、というのが、現実(「湖上の舟」視点)と理想(「愛しみあう」視点)の壁ですね。

―― いろいろやってみるといいんじゃないかなって感じはするよね。思考に嵌まると、ぐるぐる同じところ回っちゃうから。

いちいち思い悩むのがたぶん良くなくて、……いや、良くなくはないんですけど、いちいち引っ張られるんですね。

―― どういうことを大事にしているから、そう思うの?

「自分の道を進む」ってことで。僕自身が探りながらだから、いろんな人に対しても思うことなんですけど、自分を極める方向をいくということ……自分で気づかなきゃいけない……

―― 一途の道はどういう道なの?

「愛しみあう」のを、世界に対して表現していこうとする道、ですかね。

―― なんかちょっと鳥肌立った。静かに喋ってたけど、すごいエネルギーを感じた。腹くくってるような感じがした。その道を行く者としてさ、人とどういうふうに関わりたい?

作品として表現していく道があるので、生身の自分がどうこうというのは、ある意味どうでもいいんですけど、どうでもよくないって思いもどこかに残っているんですよね。それは踏ん切りがついてないってことなのか、つまり自分を捨て切れていないってことなのか……何か執着があるんですよね。
僕自身が誰かとコミュニケーションを取る−−−作品を通して人や社会に関わるという自分の道がある方ではなく−−−自分自身が、という方向に執着があるから、いちいち思い悩むし、都度そこに対する苦しみを感じるんだろうなって。

―― その苦しみって、どういう苦しみ?

繋がれない苦しみだし、「湖上の舟」の悲しさや寂しさ、絶望感でもあるし。あるいはそれを人に向けるとしたら、「なぜ真剣に向き合おうとしてくれないのか」ということでもあるし、「そういう生き方で何が楽しいのか、ごまかしの生き方じゃないのか」と。そんなことも思いつつ、同時に、人に対してその生き方を非難することはできないとも思うし。

―― そういう感情って、作家の一途としてはどういうものなの?

たぶん表現していく上で、必要な苦しみなんだと思います。作品にフィードバックしていくために。

―― なんか表情がすっと変わったね。

この苦しみはこの苦しみであっていいのかなって、思ったからだと思います。

―― なんか一途見てて、見えたのはさ、コミュニケーションを断つというのでもなく、ちょっと妥協してでも繋がろうというのでもどっちでもなく、今のこの矛盾しかない道を真っ直ぐ行く、という感じが伝わってきたよ。

そう、そうですね。そうかもしれないですね。

―― その道だね。しんど!(笑)しんどいけど、それは君の道だね。そういう感じするよ。どう、自分では?

しっくりきました。

―― もし名前つけるとしたら何の道?

「受難の道」ですね(笑)

―― (笑)応援してます。

ありがとうございます(笑)

―― きっと福音があるよ。それに、とっても勇気のある道だと思うしね。たぶん多くの人が選ばない道……ちょっと感動するね。行くんだね、その道に。

そうですね。

―― どう、改めてコミュニケーションというものに対して?

一周回って、このままでいい、というのがすっきりしました。

―― おめでとうございます。

ありがとうございます。もやもやがそのままでいい、っていう不思議な道ですけど。嫌だ嫌だと言いながらも、行く道なんだという感じがします。

―― 表情が全然違うものね。葛藤と受難と自分の……それを掻き分けようとして生まれる表現っていっぱいあるよね。いいものを見させてもらいました。

ありがとうございました。


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