本の中の無の空間、あるいは空白、あるいは沈黙 ― ル・クレジオ氏の講演会にて


2013年12月18日

東大本郷キャンパスで開催された、ル・クレジオ氏の講演会に足を運んだ。
これから記すのはその記録であるが、導入部には講演そのものとは関わりのない私の心象風景を描いていることをお断りする。それは、ここに書く以上私個人にとってはすべてが大いに繋がりのある事象なのだということも。



そのときの僕はひどく落ち込み、自分が見ている世界とはどれほど一面的で主観に基づいて形成されているものなのだろう、その主観的世界のなかで僕は誰に向かって何を書き、また何を伝えようとしているのだろうと、根源を揺るがされていた。

「文学とは何か」との問いに対し、仮説として「空白を埋めるもの」と答えを出す。空白、すなわち自己と他者の狭間に存在する埋められない溝。決して互いに結合しえない「あなた」と「わたし」の距離、その空白を埋めるものとして文学があり、また言葉があると。
しかしある人は言う。空白はお前(わたし)の中にこそあるのではないか、お前(わたし)の中の空白を埋めたいがために、他者をも取り込んで自分の世界の一部と認識し、言葉を紡いでいるのではないか。

それはある種、断罪であり、根源を揺るがすに価する衝撃だった。なぜなら僕は自分の内にある空白というものをあまり意識したことがなく、自分が「空っぽな人間」だとは考えてみたこともなかったからだ。虚無に襲われることはある、深淵に覗かれることもある、しかし空白というものは虚無とも深淵ともまったく別である。
すっかり困惑し、今まで自分だと思ってみていた鏡の中の自分の姿が、鏡ごと打ち割られてしまったような感覚を抱いた。それこそまさに、空白に侵されてしまったのであった。そうした心境のなかで会場に赴いた。

教室に入ってきた彼は、コートを脱ぎ、講壇へと向かったわけだが、ひとつひとつの動作が堂々たるもので、優雅さすら感じさせる出で立ちだった。彼の言葉は力強く僕の心の奥底に響いた。彼は僕を光差す方へ導く使い手であった。彼は狭き門を行き、あるべき姿として存在する先達だった。

いくつか書き取った言葉を載せる。



・現実の生活によって失われたもの、欠如してしまったものを修復していくものが「文学」である。(conpensationという単語を使っていた。代償とか埋め合わせとかいった意味)

・文学において、imagination(想像)はなく、memory(記憶)のみがあるのだとプルーストは書いた。私の場合は、私の記憶ではなく誰か他の人の記憶を書いている。想像力は記憶に対して自由であるから、想像力が欠如した記憶を埋めてくれると思っている。

・初めて買ったのはランボー全集であった。そのことを親に話したら、「あなたのおじいちゃんはランボーにあったことがあるわよ」と。とてもびっくりした。

・私たちはすべて、祖先を身体の中に住まわせているものである。私は両親が従妹同士で結婚していたために、同じ祖父を持ち、同じ血族を持っていた。そのことは書かざるをえないのである。島に生きた家族の秘密を、私は書こうとしたのだ。消えていった種族に関しての、ノスタルジーな作品を初めて書いたのだ。

・主要な人物、それは作家自身である。小説の中では作家の内面が描かれ、作家の正当化が行われる。それは決して作家が見栄っ張りだからということではなく、紙の上にインクでもって、自分を超え出た何か大きなものを書こうとしているのだ。自伝でもなく、詩でもなく、歴史書でもない。そのすべてであって、どれでないものが小説だ。

・小説は罠であり、読むとその中に取り込まれそうになるものだ。どちらかというと詩は哲学に近い。一方、小説はあなたを虜にして「変えて」しまう。読む前と読んだ後で、読者はすっかり変わってしまう。読み終えたときに自分が、「変わってしまった」と思えるのであれば、その文学に力があったのだということ。そういう体験のためには、子供の精神を持っていなければならない。ボードレールは、子供はすべてを美しいものとして見る、と言った。

・すべての小説の中には、普遍の規則がある。それは語り手を信じなければならないと言うこと。語り手とは虚構の人物であり、作者のこと。いつも虚構の人物として作者というものがいて、そのことによって作品が生まれてくる。

・時間は線的な物ではないと考える。現在というものはなく、過去の時代や来るべき時代が入れ交じっている入れ子構造が好きなのだ。すべてが現在に起こっているわけではない。すべての時代が交じりあってくる。行き来の運動であり、変動であり、ためらいである。そういったことが、小説で書かれる次元である。

・私は感覚でもってしか書いていないと思う。思想は使わず、むしろ宗教を信頼する。

・作家は利己主義。なぜなら、まずは自分自身に向かって書くのだから。

・物質性を生みだすこと関心がある。私によっては他の手段はない。ペンを使って紙の上に書くのが好きだ。正しく書き、(原稿)そのままでも読める字を書くように努力している。

・『物質的恍惚』を書いた頃は、仏教への関心があり、禅について調べていた。沈黙は認識に通じているのだという考え方。あの本は哲学的なエッセーなどではなく、とてもシンプルな本。私の感情や、周りの人々の対話を書いた。そして沈黙に敬意を表した。文学は饒舌だと思われがちだが、文学にとって沈黙はとても大切なもの。私はアンリ・ミショーの作品が好きで、その中では多くを沈黙に割いていることがわかる。

・ひとつの完成された姿として、本の中の無の空間がある。作品の間には何も書かない沈黙の時間が必ずあるのだ。



彼の発した言葉と、僕の中で認識した言葉にはもちろん差異があるだろう。僕は、僕に認識できる形でしか言葉を理解できない。当たり前のことだ。その認識の幅を少しずつ広めていくより他ない。となると結局行き着くところが「自分」となってしまうのだが、本当に自分が変わっていくしかないのだ。躓きながら円環を描いて、元いた地点に戻ってくるまで。
しかしながら一つ言わせてもらうならば、少なくとも、自分というものを信じていなければ表現はできない。自分を信じることによって、初めて他者を信じることも出来ると思う。同じように自分を好きでいることによって、他者を好きになることができるのだろうと。

沈黙については僕が質問したもので、しかし通訳を介したがゆえか僕の質問の仕方が悪かったのか、求めるところの答えとは違う回答となってしまった。
それは重大なことではない。質問をさせていただいて何より重大であったのは、最初マイクに向かってだけ喋っていた彼が途中から僕の眼を見て、僕の方を向いて言葉を伝えてくださっていたことである。また最後に「Merci」と言葉をかけてくださったことである。耳に聴こえる同時通訳の声を脳内に入れつつも、あの場あの空間で、確かにル・クレジオ氏と僕は繋がり言葉を交わしていた。強く、そう感じるのである。
宙に消えてしまった質問は、考えて書いて悩み抜いて、みずから答えを導きだせという天からのお達しだとでも思い、これからも執筆活動に励みたい。



講演後にごく個人的な、うれしかったことが二つある。
ひとつは教室外の廊下である一人の男性に声を掛けられ、「ブログを読んでいます」とお伝えいただいたこと。アクセス数は計れるものの数は数であって、読者の姿は見えてこない。そのため反応が見えづらいブログの執筆ではあるが、こうして実際にお会いして言葉をかけていただけるとうれしいものである。いつもお読みくださっていて、ありがとう。
またひとつは、講演の余韻に浸って立ち去りがたく廊下にいたときに、教室を移動するル・クレジオ氏とすれ違ったこと。同じ視点の高さで(もっとも彼の方がずっと身長が高い)、僕がぺこりとお辞儀をすると、彼はやさしげな眼でにっこり微笑みかけてくださったのだった。忘れられない。忘れられない記憶である。


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